臨床で感じる違和感
日々、臨床に向き合っていると、ある種の違和感にぶつかることがあります。
病態(理屈)としては合っている。証(分類)も間違っていない。
それでも、処方が身体にきれいに噛み合わない。
効く人と効かない人が分かれてしまう。その差を生むものは何なのか――そう感じる場面があります。
多くの解説は、「どこが弱っているか」「どこに異常があるか」という整理から始まります。
もちろんそれは必要な視点です。
薬理学的な視点で処方を用いることが重要な場面も確かにあるからです。
ただ、臨床の場で強く実感するのは、それ以上に「身体が今、どのように動いているか」、あるいは「どこで動きが止まっているか」という点の重要性です。
とても感覚的な表現に思えますが、そのような場面に遭遇することは少なくありません。
漢方は本来、静止した状態を分類する学問ではなく、体内で起きている運動を読み取り、その流れを調整するための技術だったように思うことがあります。
桂皮に見る、相反する症状をつなぐ共通の背景
このような視点に立つと、処方や生薬の意味が大きく変わって見えてきます。
たとえば「桂皮」です。桂皮は一般に、身体を温める、血行を促すといった説明がされることが多い生薬です。
しかし臨床では、血の気が引いたり、顔色が急に悪くなる感じや、逆に、動悸・不安、驚きやすさといった状態にも、のぼせや突き上げるような不調にも用いられます。
一見すると正反対の使い方のように見えますが、ここにこそ桂皮の特徴があるように思います。
これらの状態に共通しているのは、「量が足りない」「上がりすぎている」といった単純な問題ではありません。
多くの場合、自律神経系の不調から、胸から腹部にかけての緊張により、身体全体に広がるはずの循環的な動きが途中で止まり、行き場を失っています。
桂皮は、その停止した動きに再びスイッチを入れ、内から外へ、中心から末端へと広がる本来の流れを呼び戻します。
その結果として、顔色や感覚が回復したり、停滞した流れを取り戻すことで突き上げる感覚が自然に落ち着いたりするようになるのだと考えています。
状態を当てることではなく「動きを整える」こと
同じ考え方は、桂枝湯の類方である、桂枝加桂湯や桂枝加芍薬湯の使い分けにも当てはまります。
桂皮は動きを起こし、前へ進める役割を担います。
一方、芍薬は過剰な緊張を緩め、急ぎすぎた動きを鎮めます。腹部の張りや痛みが出ているときに桂枝加芍薬湯を用いるのは、病名や分類による判断ではありません。
そこに「強すぎる動き」や「逃げ場を失った収縮」が生じており、それを一度ゆるめ、リズムを取り戻す必要があるからです。
このように考えていくと、漢方において大切なのは、「どこが悪いか」だけではなく、「今、身体がどのような動きをしているか」、そして「その動きをどちらへ導くべきか」という点であることが分かってきます。
漢方を診断学として扱えば、分類は精密になりますが、処方はどうしても硬直しがちです。
一方、運動学として捉え直すことで、加減や加味の意味が自然に理解でき、処方は生きた道具として機能し始めます。
漢方は、病名に基づいて処方を当てるのではなく、身体の運動を読み、その流れを整える技術である。
そう捉え直したとき、漢方は再び、臨床の現場で確かな手応えをもって応えてくれるように思うのです。
