漢方に向き合うと、簡単に説明できない場面に何度も出会います。
そして日常の相談の場でも、症状と処方がきれいに結びつくことは少なく、判断に迷うところから考え始めることが多いように思います。
はっきり答えに辿り着いたと思っても、別の患者さまでは通用しないことが多く、その積み重ねの中で、「分かったつもり」になること自体に警戒するようになりました。
諸大家の著書を読み返すと、視点や重心の置き方が微妙に異なることがあります。
どれか一つが正しく、他が誤りではなく、その違いをどう受け止め、目の前の臨床につなげるかが大切だと考えています。
その余地こそが、漢方の奥深さであり面白さでもあります。
極端な話ですが、患者さまが良くなるのであれば、どんな方剤でも構わないと私は考えます。
処方集を開けば、桂皮、芍薬、甘草、茯苓など、同じ構成生薬が何度も現れます。
見慣れた処方ほど、理解したつもりになりやすく、扱いを誤りやすくなります。
生薬ひとつでも、その捉え方は一様ではありません。
どの方剤の中で、どの位置に置かれているか。
違いに戸惑い、考え直すたび、視点が少しずつ変わる感覚に引き込まれていきます。
古典である傷寒論は驚くほど簡潔です。
症候があり、処方がある。
理解したつもりで読み流すことが、いちばん危ういのだと実感します。
実際の相談では、教科書通りの症状を示す方はほとんどいません。
常に身体は揺れ動き、矛盾を抱えています。
理論を当てはめようとするほど、何か大切なものを取り逃がす感覚が残ります。
理論だけでは足りず、感覚だけでも危うい。
理論を通したあとで、もう一度問い直す。
その往復の中で、はじめて判断が生まれる気がしています。
患者さまの声の張り、目の力、言葉の選び方、間の取り方。
数値化できない情報に目を向け、一つひとつ確かめながら日々の相談に向き合っています。
解剖学や生理学のない時代に、古人は体に起きている現象をくまなく観察し結論を導きました。
今も昔も、現象に矛盾はありません。
理論と感覚の間で揺れ動く独自の世界観に、探求し続ける魅力を感じるのです。
