症例①
70代
6月の終わり、患者さまはどこか神妙な面持ちで来局された。
「痰が喉にかかって、どうにも気になって仕方ないのです」と静かに口を開かれた。
毎年春先になるとアレルギー性鼻炎の症状が出るが、今年は例年よりも強く、回復も遅かったという。
咽喉部の違和感はようやく落ち着いたものの、痰がいつまでも残り続けている。
そうこうしているうちに、口腔内に表現しがたい乾燥感を感じ始めた。
さらに、頬のこわばりや足の甲の灼熱感まで気になり始めた。
胸のあたりはざわつき、気持ちも落ち着かない。映画が好きなのに、座っていられず途中で席を立ってしまう。眠りも浅く、夜中に目が覚めると痰が気になり、洗面所で口をゆすぐのが習慣になってしまっていた。最近は耳鳴りも気にかかるという。
耳鼻科では器質的な異常は確認されず、去痰剤を処方されていたが、症状は一向に上向かなかった。
うつむきながらこれまでの経過を丁寧に語ってくださった。
話の途中、何度も汗を拭う姿が目に留まった。
その日も蒸し暑かったが、空調の効いた室内でも汗が引かない。
普段から汗が止まず、タオルが手放せないという。
2週間ほど前に白内障の手術を受けたが、経過は順調。
ただ手術前は急な日程変更などもあり、緊張とストレスが続いていた。
本来、それほど神経質な性格ではなかったのに、とご本人も驚いた様子だった。
症状には「煩驚(はんきょう)」がみられることから、柴胡剤の適応が念頭に浮かんだ。
煩驚とは、強い不安や驚き、動悸などが生じる神経過敏の状態を指す漢方の概念で、自律神経の乱れに伴って現れる特有の兆候である。
しかし、これまでの経緯を考えると、単純に煩驚だけで説明できるものではなかった。
そこに至るまでの背景、すなわち原因を整えない限り、改善には導けない。
痰は透明で粘り気があり、喉の奥にはりつく不快感が続いているという。
春先の炎症、長期のストレス、睡眠の質の低下など多くの要因が重なり、体液バランスが乱れた結果の病態と考えられた。また暑さによる体液の消耗が重なり、末端の熱感や口渇、肌の乾燥も感じやすくなっていた。血行や代謝を整える目的で「牡丹皮」のような瘀血剤の要素も必要と判断した。
こうした状態を踏まえ、2週間ごとに煎じ薬を細かく調整した。
風味は決して飲みやすいものではなかったはずだが、「良くなるなら」と毎日欠かさず服用してくださった。
まず口腔内の乾燥や口渇が軽快し、続いて睡眠や体調全般が整い、全身に広がっていた諸症状は徐々に薄れていった。3カ月後に痰を除くほぼすべての症状が改善し、その後痰も日常生活で支障にならない程度まで回復した。
ご相談を重ねるごとに表情に笑顔が増え、その変化に毎回励まされる思いだった。
約4カ月間で服薬を終了した。
西洋薬による自律神経の治療では、ベンゾジアゼピン系の安定剤が中心となり、脳の活動を鎮静化させることで、過剰な興奮を抑えている。しかし眠気、筋弛緩作用、依存性といった副作用が懸念される。
一方で漢方薬は、脳そのものに作用するのではなく、身体側から状態を整え、自律神経の安定を導く。
全身の変調を均し、自然な回復力を引き出す治療である。