一睡もできないのに疲れない
男性画家として活動されている方で、不眠を主訴にご相談いただいた。
お話を伺うと、2週間ほど前から寝付けなくなり、ひどい時には一睡もできないまま朝を迎えることもあるという。
通常であれば、睡眠不足が続けば強い疲労感や集中力の低下が現れても不思議ではない。
ところが、この方の場合は少し様子が違っていた。
一睡もできていないにもかかわらず、日中に強い眠気や疲労感を感じることがない。
仕事にも取り組めており、制作を始めると何時間も集中し続けることができるという。
ただし、ここ最近は周囲から体調を心配されることが増え、以前ほど長時間の作業は控えるようになっていた。
ご相談中は終始表情が硬く、どこか行き詰まりを感じさせる様子がうかがえた。
不眠のきっかけとなる出来事に心当たりがないか尋ねると、「思い返せば、なくはないですが……」
と歯切れの悪い返答だった。
人の苦しみを本当の意味で理解することは難しい。
それでも、この方が非常につらい状況に置かれていることは十分に伝わってきた。
身体的な不調について伺っても、「特にありません」とのこと。
しかし、一睡もできない状態で制作を続け、夜になっても再び眠れない。
その様子からは、心身が休息モードへ切り替わらず、興奮状態が持続していることが一目瞭然だった。
興奮のスイッチが切れない
不眠というと、『横になってもなかなか寝付けない状態』を想像される方が多いかもしれない。しかし実際には、不眠にもさまざまな形がある。
不安や緊張によって眠れなくなる方もいれば、考え事が頭から離れず寝付けなくなる方もいる。
夜中に何度も目が覚めてしまう方もいれば、朝早く目覚めてそのまま眠れなくなる方もいる。
一方で、頭だけが働き続け、休もうとしても休めない状態に陥ってしまうこともある。
今回のご相談では、その傾向が強くうかがわれた。
一睡もできていないにもかかわらず疲労感を訴えず、制作にも集中できている。
制作に向かえば何時間でも集中できる一方で、その集中状態が夜になっても途切れない。
頭では休まなければならないとわかっていても、考え続けることをやめられないような状態だった。
こうした状態から、まずは神経の高ぶりを鎮め、夜間に心身が自然と休息へ向かいやすい状態を目指して、15日分の煎じ薬をお作りした。
2度目のご来局
その後、3週間ほど経った頃に再び来局された。前回の相談時に見られた険しい表情はなく、穏やかなご様子だ。
現在の状況を伺うと、煎じ薬開始後の早い段階で変化を感じていたとのことだった。
数日後にはしっかり眠れるようになり、その後も順調に推移。
さらに印象的だったのは、漢方薬を2週間で終了した後も、問題なく眠れているという点だった。
今回のケースでは、長期間の服用は必要なかった。
興奮状態が落ち着き、本来備わっている睡眠のリズムが戻ったことで、自然に眠れる状態へと回復したのである。
お力になれたことを心から嬉しく思った。
不眠で医療機関を受診した場合、おおよそ睡眠導入剤が処方される。
もちろん非常に有効な手段であり、必要な場面もある。
一方で、不眠という症状の成り立ちは決して一つではない。
不安や緊張が原因の場合もあれば、生活リズムの乱れが関与している場合もある。
そして今回のように、心身の興奮状態がうまく収まらなくなっているケースもある。
漢方は睡眠薬の代わりではない。
しかし、なぜ眠れなくなったのか、身体にどのような変化が起きているのかを丁寧に見極めることで、今回のように短期間で改善に導くこともできる。
特に、頭と身体が休息へ切り替わらず、興奮のスイッチが入り続けているような状態は、漢方がよく適応する状態の一つである。
不眠は単に睡眠時間だけの問題でもない。
なぜ眠れなくなったのか。
身体のどこで切り替えがうまくいかなくなっているのか。
そこに目を向けることで、改善への糸口が見えてくることもある。